紹介は目上の者を先にしてはいけない?
まず代表者からはじまり、順々に部下の紹介へと移っていくのが西欧の人物紹介のやり方なら、日本の場合はまさしく逆。
ふつう目下の者からはじめ、しだいに目上の者へ、最後に代表者を紹介するのがならわしである。目上の人を先に紹介しては、とにかくいけないのである。
前座があり、真打ちはあとで登場する落語などはその典型だし、歌合戦などの〝とり〟の発想も然り。このことはどうやら、昔の俗にいう〝取り次ぎ〟の形式から由来しているとみる見方が強い。
つまり、門番から玄関番へ取り次ぎ、さらにその家の書記ともいえる諸大夫、侍従を経てようやく主人に伝えられるといった順序である。
門があり、玄関があって、廊下を通って奥へと案内される。日本家屋の構造にもどうも起因しているようである。
日本が国際社会の仲間入りを果たした現代こそ、欧米化がすすみ、紹介の仕方も一様ではなくなったものの、この傾向はまだ根強く残っており、人物紹介に限らない。ちなみに、神社の祭りによみあげられる祝詞もまた位の低い神様から述べられ、順々と位の高い神様を呼び寄せるようになっている。
神々も芝居の番付もさして変わりがないところが面白い。下から上へと上がっていく意識構造は、ヨーロッパと明らかに違う点だ。あちらの神様なら、憤慨してしまうところかもしれない。
男は右手で酒を飲んではいけない?
「右手で酒を飲むべからず」──昔の人は、よくそう戒めてきたものだ。なぜ、酒を持つ手は左手に限るのだろうか。
別に右手のほうが肴をつつきやすいからというわけではない。酒飲みを意味する左党からきているわけでもない。これは昔の武家作法にのっとったスタイルなのである。
では、なぜそれほどまでに左手にこだわるのか。理由は単純。武士たるものいつなんどき敵におそわれてもいいように、刀を抜く右手は、常に空けておく必要があったからである。
酒を飲んでいるときでさえ、見えない敵に備えまれてきたことを感謝すべきなのであろう。
庚申の夜は眠らず、子作りもせず、身を慎んで迎えるべし
江戸時代の川柳で庚申待ちを詠んだ句に、「寝て用がないで庚申夜をふかし」という句がある。
庚申待ちは中国の道教が起源、干支との庚申にあたる禁忌を中心とした信仰のことである。昔の日本では、庚申の日にみなが集まり、信仰行事がさかんに行われていた。この集まりは庚申講と呼ばれ、所によっては庚申塔といわれる供養塔も立っていた。
これらはすべて道教の教えがもとになっているのだ。道教では、人間の体内には、三尸虫という三匹の虫が住んでいることになっている。
この虫が庚申の夜になると、人間が寝こんでいる間に抜け出して、ひそか天にのぼり、天帝にその人の罪過を報告するのだといわれている。
だから、これを防ぐために、庚申の夜は眠らずに、一晩中起きて身を慎まなければいけないとされてきた。先の川柳は、用もないのに夜ふかしをしていなければならないという、そんな庚申の夜の退屈を揶揄した句なのである。
このように庚申の夜は一睡もせずに、慎んで起きているのが、建前であるから、男女のセックスもタブーであった。「庚申の夜に交わってできた子は泥棒になる」ともいわれている。
しかし、後世になると、人々は庚申の夜の退屈さにたえかねてか、この晩をみなが集まり、酒を飲んだり、雑談をする場としてしまったのである。
鏡餅は刃物で切らない
正月に、自分が最も大切とするものに餅をそなえたのが、鏡餅のはじまりである。仏壇に供え、先祖崇敬の念をあらためたり、帳場の神棚に供えて商売繁盛を願うのはよく見かける光景だ。
鏡開きは一月十一日に行うのが常だが、徳川時代までは二十日ときまっていた。武士なら刃柄によせ、婦人は鏡台に供えた餅を、毎年二十日におろして食べたのだ。
十一日にあらためられたのは、二代将軍秀忠が一月二十日に逝って後のこと。また、正月早々〝切る〟というのも縁起が悪いので〝開く〟という言葉を用い、〝鏡開き〟というようになった。
刃物を避け、弓弦で引いて切るならわしも、縁起をかついだゆえに生じたものだ。
四足を食べたら参詣するな
周知のように、日本では江戸時代までは〝肉食〟が固く戒められてきた。
誤解している人も多いようだが、この場合の〝肉〟とは鳥獣肉全般を指すのではなく、主として牛、豚類である。鳥をはじめ、狸、猪、鹿などは比較的食されていたようだ。
とはいえ、〝四足を食べる〟という行為は現在ほど日常化しておらず、昔の人には多少なりとも抵抗感があったことは想像に難くない。
室町時代に制定された「服忌令」というきまりの中にも、〝肉食〟の禁忌についてのくだりがみえる。たとえば、「猪・鹿を食べた人は五十日の間は参詣するな、相火(その同じ火で料理したものを食すること)の人は三十日間、又相火の人は二一日間、参詣を遠慮せよ……」というのだ。まだまだある。
「四そく(よつあし)の肉を食べたら、七日すぎてから社参せよ、鳥であれば三日待て……」などといった具合に細かくきまりを定めていたのだ。
今日の私たちの生活感覚からすると、どれもこれも一笑に付すべきものだが、当時の人たちにとっては、〝四足を食らう〟ということは、それほどの覚悟を要したのであろう。食べたい物を好きなように食べることができる我々は、いい時代に生まれたようだ。
玄関の履物は入船の形にしたままでは嫌がられる
玄関を上がったら、履物は向こう向きに「出船」の形にそろえておく。
料理屋や旅館、ごく一般家庭の玄関でも、「入船形」は嫌がられる。
なぜだろうか。歴史を遡ってみると、事の起こりは、多くの作法同様お茶の世界。躙り口をくぐって茶室に入る際、うしろ向きに直して自分の履物をそろえたのがはじまりだ。
当初、お茶は武士たちのあいだで始まり、広められていった。茶席での精神の統一は、武士たちにとってこの上ないひとときだったのだろう。
しかし、いつなんどき敵が攻め入ってきても、反撃に出る用意は怠ってはならなかった。そして、逃げ出すときにそなえて、履物も履きやすい状態にしておく必要があった。
織田信長のゾウリを、書院の沓脱ぎ石のところで豊臣秀吉がそろえていたというエピソードがある。履物を「出船」の形にそろえておいたのは、いってみれば防衛本能のなせる技で「入船」の形は不用意を意味したわけだ。
もちろん、履物を「出船形」にしておく習慣は、お茶の影響ばかりではない。かつて描かれた天皇や名僧などの肖像画のなかでも、履物がそろえてあることがある。
履きやすいように実用性を考えてのことだったのだろう。いずれにしても、礼法として定着したのは、江戸時代からのことである。
柏手は音をたてずに行うもの
柏手は、神々の再来を祈って打たれるもの。伊勢の大宮司による八開手は八拍手ときまっているが、それ以外の場合は二拍手、神社でも二拍手がふつうである。
その昔、岩戸にかくれてしまった天照大神を再び呼び戻すために、神々が手を拍って迎えたのがはじまりと伝えられる。手を拍つことは、敵意を持たぬことの表現でもあった。
柏手は、拍手とはちがう。手びょうしを打つ格好ながら、本来拝むことが基本にある。神仏混合当時には、合掌と柏手を二つ合わせて行い、二段再拝と呼ばれた。仏式葬儀の焼香の際、音をたてて手を合わせる者はまずいない。
神式の場合は手を引いて打つ動作が大きいので、音をたてるものと誤解しやすいが、音はたてずに拝むのが本来の相手である。
合掌と同じく、心から胸のまえで手をあわせる気持ちが大切だ。一方の手だけを引いて打つときは、人を呼ぶ場合で、一時、神社でも音の響を考えて、手をずらして打つようになったりもした。
しかし、人が亡くなったときなど、一年間は相手の音を立てずに拝み続けるのが神式の約束事。
厳粛な場に際しては、心を平静にして拝むのが正式だ。神式ではこれを〝忍手〟と呼んでおごそかに行っている。今では、こうした作法を守っている人は少ないが、日本人であるなら、ぜひ覚えておきたいものだ。