30代のやってはいけない冠婚葬祭作法

知らないではすまされない「冠婚葬祭」マナー

襖障子は両手をそろえて開けてはいけない

片手ではなく両手を使った動作のほうが、一般に礼儀正しいとされている。

 

両手をひざまえに寄せてお辞儀をし、手みやげは両手をそえて相手に差し出すといった具合に、日本の立ち居振舞にはことさらその傾向が強い。

 

しかし、襖障子の開閉に限ってはその逆。両手を使うのは不作法なのだ。正式な作法では、襖の手前二五センチほどの所に離れて坐り、片手を交互に使って開閉するのがよいとされている。

 

歴史を遡れば、畳が敷きつめられたのは室町時代以降。以来、襖障子の取手は坐ったまま開けるのに都合のいいように中央から下に付けられるようになった。

 

昔から伝わる作法を詳しく説明してみよう。まず、襖の外から声をかけ、開ける襖の正面に坐ったら引き手に近いほうの手を取手にかけて五センチほど押し開ける。

 

次にその手を下ろしてきて、敷居から二五センチぐらい上の襖の縁にあてて体の正面まで開ける。

 

さらに反対の手を同じ位置にかけて、体の幅ほどまで押すように開ける。閉めるときはこれと逆にすればよい。基本は、右から中央までが右手、左から中央までの動作を左手が受け持つところである。

 

体の中央を境にして、左右の手を切りかえることで、腕に余計な力が入らずにすむ。余分な動きのない動作は、それだけで美しいものだ。あくまでも、人間の筋肉の働きを計算に入れた立ち居振舞なのである。

「土用の丑の日」鰻は食べても土木工事はダメ

「土用の丑の日」には、鰻を食べることになっている。夏の暑いさ中に鰻を食べるのはまた格別、確かに鰻は夏バテ防止に効力を発揮することだろう。

 

どうも一般には、土用イコール鰻という図式が浸透してしまっているようだ。

 

しかし、土用は鰻屋のためにあるばかりではない。土用というシーズンは、夏に限らず四季を通じてそれぞれにあるのだ。

 

土用は、春夏秋冬の末に各十八日余りずつが配当される。この土用の明けがそれぞれ立春、立夏、立秋、立冬となるわけだ。

 

これを記すと具体的には次の通りとなる。

 

*冬土用→一月十七・十八日頃から二月節分の前日まで。

 

*春土用→四月十七・十八日頃から五月立夏の前日まで。

 

*夏土用→七月二十頃から八月立秋の前日まで。

 

*秋土用→十月二十日・二一日の頃から十一月立冬の前日まで。

 

土用とは読んで字の如く、土気の作用を意味する。その作用とは、土気が物を変化させることをさしている。

 

そこで土用の期間中には、特に土を動かしてはいけないといわれ、土木工事を禁じてきたのだ。具体的には春はカマド、夏は門戸、秋は井戸掘り、井戸さらい、冬は庭造りなどがタブーであった。今ではこれを守る人も数少なくなってきてはいるが……。

節分にまく豆はなぜ生ではいけない?

「鬼は外、福は内」ととなえて豆をまく──例年、二月の三、四日ともなると、どこの家庭でも目にすることのできるおなじみの節分の光景である。

 

このときまく豆は煎った大豆である。なぜ生の豆をまいてはいけないのだろうか。ただ鬼の眼をつぶすためだけに投げるのなら、生の豆でもよいだろう。後で拾って食べるためだろうか節分のルーツは中国の追儺という行事からきている。

 

これが平安時代の朝廷や貴族の間で取り入れられ、だんだんと庶民の間にも普及していったのである。当時、行われていた追儺は、現在の節分の豆まきとは、かなり様相を異にする。

 

第一に二月ではなく、十二月二八日に追儺は行われていた。そして、鬼を追い出す発想は同じだが、豆をまくのではなく、松明をかざして、外に追い出していたのである。

 

この行事が入ってくるはるか以前から、わが国には農耕占いである豆占という占いがあった。冬と春の分かれる節分の日に、大豆を十二個灰の上に並べ、右から順に一月、二月と決めておき、その豆の焼け具合によって、年間の天候・吉凶・豊作などを占ったのである。

 

正月の豆が白く焼けるとその年は照り年、焼けにくい豆の月は雨といったあんばいである。この豆占に中国の追難がいつしか重なって、現在の節分という行事ができあがったため、豆は煎るのである。

正月に仕事をしてはいけない

正月は神仏来臨の祭りを行う季節、日常の生活と一線を画すために、古来より正月にはさまざまなタブーがあった。主な例を拾ってみよう。

 

「農事・山仕事・漁業その他の仕事をしてはならない」、「下肥を使ってはならない」、「鳴り物や騒音をたててはならない」、「金銭を支出してはならぬ」、「屋内の掃除をしてはならぬ」、「神仏来訪の方角を見てはならぬ」など正月に関するタブーには、枚挙にいとまがない。

 

こうしたタブーを順守したのちに、はじめて神仏との共食、直会が許されるのである。まさに「一年の計は元旦にあり」。元旦にはタブーも多いが、またそれだけに年間を通じて、最も重要な日でもあるのだ。

カップルで弁天さまに行くな!

弁天さまは、七福神の一つとして、古来から、日本人の信仰の対象となってきた。

 

日本のあちらこちらに弁天さまを祀る神社があり、安芸の宮島、大和の天の川、近江の竹生島、相模の江ノ島、陸前の金華山が日本の五大弁天とされている。

 

これら各地の弁天さまには、お参りに訪れるカップルも少なくないようだ。ところが、今では何の抵抗もないカップルでの弁天参りも、昔は避けるべきものとして戒められていた。

 

これは弁天さまの性格と関係がある。弁天さまの正しい名称は、弁財天で、もともとは吉祥天と並びインドの最も尊崇されていた女神である。

 

〝弁天娘〟という言葉もあるくらいで、容姿端麗、代表的な美人の神さまでもある。しかし、この神様、美人なのに、大のカップル嫌い。非常に嫉妬深く、男女が揃ってお参りすると、二人の仲を裂こうとするというのである。

 

嫉妬深い女性の心理から推し測ると、女性が美人であればあるほど、男性がハンサムであればあるほど、弁天さまの嫉妬心もメラメラと燃え上がってくるに違いない。

 

彼女や彼と別れたくなければ、弁天さまには一緒に行くなというわけだが、この弁天さまの嫉妬心をちゃっかり利用しようという輩もいるかも……。

 

彼女と切れたいために、あえてカップルで弁天参り。もちろん、ご利益の程は、試してみるしかわからない。

櫛を拾ってはいけない

「髪は女の命」といわれた時代もあった。髪が命なら、髪をとかす櫛は、その時代の女性にとっては、命から二番目に大切なものであったかもしれない。

 

つげ、竹、象牙、べっこう……昔の女性は幾種類もの櫛をもっていたものだ。ところで、櫛を大切にしていた昔には「櫛を拾ってはいけない」とする戒めがあった。

 

これを単なる語呂合わせにすぎないとする人がいる。櫛と苦死とをかけて、櫛を拾うと苦死を拾うことに通じるからだというわけだ。

 

しかし、これは後世の人が勝手につけた解釈のようである。櫛のルーツをたどっていくと、もっと別の理由がみえてくる。

 

元来、櫛とは、神前に捧げる玉串の「串」と同じ意味を持っていた。だから、櫛には特別な霊力が宿っていると考えられていたのである。

 

その櫛を畏れおおくも、「拾う」などということは、もってのほかというわけだ。昔の人がいかに櫛を大切にしていたか、わかろうというものだ。ちなみに、その当時は櫛を髪にさすということは、魔除けのおまじないも意味していた。

 

後世に入り、女性がだんだん髪を結いあげるにつれて、櫛は単なる髪飾りの役目しかもたなくなってしまったのである。

早死にするから帯を切ってはならぬ

妊娠五カ月を祝う〝帯祝い〟ちょうど今の七五三にあたる〝帯結び〟の儀式など帯にまつわるわが国の風習。儀式は昔から数多くみられる。

 

実際、古事記のなかにも帯に関する記述があるほどだ。今日では帯は後ろで結ぶものとなっているが、昔は前で結ぶこともあった。

 

江戸中期には人妻は前結び、未婚の女性は後ろ結びをする習わしがあったため、「うしろ帯もう笑われる年になり」と、若づくりした女性をからかう川柳まで生まれたりもした。

 

さて、このように日本人の生活と深く関わってきた帯にまつわる俗信も多い。

 

「早死するから帯を切ってはならぬ」というのもそのひとつだ。これは、夫婦のいづれかが死ぬと、残された配偶者が自分の帯を裂いて棺の中におさめた、という風習から、帯を切ることを嫌って生まれた俗信であろう。

 

そのほかにも、帯に関する禁忌の俗信としては「長わずらいするので帯を枕にして寝てはならない」「帯を結んだままにしておくと出世できない」などがある。

 

前者は帯が長いことが長わずらいを連想させるし、実際に枕として使い、帯がよごれるのを戒めたもの。また、後者は結び目が跡となって残るのを嫌ってできた俗信と考えられる。