【お見合いの常識】自己紹介状と写真の用意
■書面で誠意を伝えよう今まで会ったことがない人に、自分自身を伝えるための自己紹介状です。ここで、何よりも大切なのは、自分がまじめな気持ちで、きちんと見合いにのぞんでいるという姿勢をみせることです。
冗談や冷やかし半分、あるいは義理で仕方なく、というのは表にあらわれるものです。
■履歴書・身上書・家族書自己紹介状には、履歴書と身上書、家族書があります。履歴書には、住所、氏名、生年月日、学歴、職歴を書きます。身上書には、身長、体重、健康状態、資格、趣味、信仰や生活信条、所有財産など、生活状況がわかるように書きます。
家族書には、同居の有無を問わず、既婚の兄弟もふくめて家族全員の状況を書くこと。それぞれの氏名、年齢、出身校と現在の職業にふれ、死亡している場合にもその理由と年月日を記します。
■便箋に手書きが原則この際、市販されている一般的な履歴書を使うと、事務的な印象をあたえますから、白無地か罫の入った便箋に、万年筆か、ペンで縦書きするようにします。
毛筆は、印象が強すぎるので避けること。ボールペンやサインペンも、簡単にすませている印象をあたえるので使わないほうがよいでしょう。
■写真の用意についてスナップでは、どうしてもカジュアルな印象になります。きちんとした写真を1枚入れるためには、写真館で撮影した方がよいでしょう。
また、自然な表情のスナップ写真を添える際にも、次のことには注意します。・水着姿など、肌の露出の多いもの・友達(特に、異性)と一緒のもの・顔や表情がわかりにくいもの
■世話人へ手渡しで依頼をこれらはそれぞれを白の長封筒(郵便番号欄のないもの)に入れた後、まとめて大きな茶封筒に入れて、表書きに自分の名前と「自己紹介状在中」とします。
世話人が中身を確認できるように、封はせずに渡します。これも、郵送や親頼みにするのではなく、できるだけ自分で出向くとよいでしょう。
【お見合いの常識】縁談が持ち込まれた時
■依頼していない時の断り方縁談を依頼していないのに、持ち込まれる場合があります。
このような時は、相手に失礼のないようなふるまいが大切です。書類を見ずに返したほうがいいのは、次のような場合です。
・結婚する意思がない
・交際中の人がいる
・経済面などの結婚する条件が整っていないこのような時には、時間をおかずにきっぱりと断るようにします。
書類は受け取らないのが原則ですが、断りを伝える前に届いてしまった場合には、開封せずに送り返します。開封してしまうと、結婚する意思はあるものの、今回の相手が気に入らなかったからだと思われます。
返す際には「まだ、結婚は考えておりませんので」「意中の相手がおりますので」と理由を伝えた方がよいでしょう。
■書類を見て、断る場合条件が合わずに断る場合には、世話人に対しては、その理由についてはっきりと伝えてかまいません。
この点をあいまいにすると、かえって迷惑をかけることにもなりかねません。今回は断っても、引き続き紹介を依頼するなら、「また、いいお話がございましたら、どうぞよろしくお願いいたします」と言葉を添えておきます。
特に理由はないけれど、なんとなく気に入らない場合でも、「なんとなく」はマナー違反。具体的な理由と共に、「私にはすぎた方のようですので」として、断るようにします。
断り方の例
「ご両親との同居を希望されているとのことですが、私にはつとまらないかと思いますので、申し訳ございませんが…」「他に兄弟がおりませんし、できるだけ両親の側にいたいと思っておりますので、転勤のある方とはむずかしいかと…」知人や親戚などから持ち込まれて、まったく結婚の意思がない時にも、あわてて断るのは失礼です。いったん書類をあずかった上で、結婚の意思がないことを正直に話します。
■縁談を受ける場合話を聞き、いい縁談だと思った場合でも、その場で即答することはさけ、「家族と相談してお返事させていただきます」と返事して、書類をあずかります。
家族と検討した上で、わからないことなどはあいまいにせず、世話人にたずねます。見合いを進めてもらいたい時には、本人が菓子折りを持参して世話人をたずね、「よろしくお願いします」と伝えます。
まだ、自分の書類をあずけていない時には、このときに持参します。なお、返事を伝えるだけなら、電話でもかまいません。目安は書類を受け取ってから、1週間以内と考えましょう。
見合いの準備と方法
■世話人へ依頼する
自分自身の結婚に対する考えが定まった時を適齢期とするとよいでしょう。
そして、見合いで結婚相手を探そうという場合、世話人に頼ることになります。世話人は、人脈が広く、社会的に信用のある人が理想といえます。
自分、あるいは親の知人など、直接的に自分のことをよく知ってくれている人に頼めるとベストです。
■自己紹介状と写真を持って訪問する
まず、紹介を引き受けてもらえるかを打診し、世話人を訪問して依頼します。親の知人の場合でも、原則としては自分で依頼すること。
持参するのは、自己紹介状と写真。写真は、前向きにきちんとした服装で全身が写っているものを1枚。
さらに、自然な表情がわかるスナップ写真を添えると、自分の雰囲気が相手に伝わりやすいでしょう。写真の裏には、住所と氏名、撮影場所、撮影年月日を書き添えること。
■譲れない条件は前もって伝えること
世話人に頼む際、条件として、「背の高い人」「収入が○○以上の人」などと、自分の勝手な希望ばかりを言い立てるのは非常識と思われます。世話人の心情を害することにもなりかねません。
ただし、離婚歴や子どもの有無、「親との同居」「家業の後継ぎ」「転勤の可能性」など、自分にとってマイナスになると思われることも隠さず、正直に伝えておきます。
なお、世話人宅を訪問の際は、菓子やフルーツなどの手土産を持参するようにしましょう。
■せっかちに催促しないように!
頼んだからといって、世話人がすぐに希望に合う適当な人を見つけられるとはかぎりません。あせって催促するのはひかえます。
依頼して1ヵ月ぐらいは時間をおいて、何も連絡がなければ、こちらから電話して状況をたずねてもよいでしょう。
◎親がたずねる場合
「本来でしたら、本人がご連絡すべきところですが、その後いかがかと思いまして、お電話をさしあげました。せかしているわけではございませんが、経過だけでもお聞かせいただければと存じまして……」
◎本人がたずねる場合
「お電話で伺うのも失礼と存じましたが、私の縁談のお話は、その後いかがでしょうか。催促がましくて申し訳ございませんが、両親が楽しみにしておりまして…」3ヵ月ほど経っても進展がなければ、いったん区切りをつけます。
そこで引き続き、頼む場合には、「お心に留めておいていただければ…」とあらためてお願いします。
いったん終わりにするなら、「このたびは大変お世話になりました。もし、いいお話がありましたら、どうぞよろしくお願い申し上げます」と丁重にお礼をして、自己紹介状などを引き取ります。
妊婦と一緒に鍋を使わない
鍋料理は、多人数での会食のときには便利である。大鍋に煮た食物をそれぞれに取って食すということは、昔は共同体としての意識を再確認するという効果もあった。
それは家庭においても同じで、囲炉裏を囲んで、同じ火で炊いた一つの鍋から料理をわけて食べることで、家族としての連帯感を強めていたのである。
だから、鍋に関するタブーも生まれた。たとえば、昔、不浄のものであるとされた出産や生理中の女性と同じ鍋で食事をしないというのがある。
これは、共同体の象徴である大切な鍋を血の穢れを持つ女性と一緒に使わないということだが、現代ではもうこんなこともあるまい。
ネコを死人の部屋に近づけてはならない
今までぐうたら遊んでばかりいた怠け者が、生まれ変わったようにバリバリ働きだす──昔の人は、よくこんな人を指して「ネコ魂が入った」などといった。ネコの体には、何か人智でははかりしれぬ摩訶不思議な魂が宿っていると考えたのであろう。
同様のいわれは、死者の場合にも適用される。しかし、これは概して不吉なことをさしている場合が多い。
「死人の部屋には、絶対にネコを近づけてはならぬ」とか、「ネコが死人の部屋へ入ると死人が立ち上がる」などといった俗信が、全国各地に伝えられているのだ。
これらは、ネコの魂が死人にのりうつり、化けてでることを恐れ、戒めたタブーなのである。珍しい例では、「ネコが死人をまたぐと、嵐が吹く」とか、「死人が起きてご飯を食べる」、「水を飲む」などという俗信もある。
また昔、沖縄では、「ネコに屍を越えられると、いつまでも死体が朽ちず、骨を洗うことができない」という言い伝えもあった。
これはネコにジャマされ、死者がいつまでも成仏できずにいるさまを意味したものであろう。
その他、宮崎県では、「ネコを川の中に入れて水を飲ませ、死人をほうきで叩くと死人は起き上がる」などといった理解に苦しむような話も残っている。
いかに非科学的な話であれ、ネコ魂は昔の人にとって脅威の存在であったようだ。
これは意外!?〝おれ〟〝おまえ〟
〝おれ〟という言葉は、江戸時代の男は使わなかった。なぜならこの時代には、〝おれ〟は女性言葉だったのである。
〝おれ〟の語源は、一人称代名詞の〝あれ〟が変化してできたもの。
どういう経路をたどってか、いつしか女性が自分のことを〝おれ〟というようになった。
今でも山村に行くと自分のことを〝おれ〟というお婆さんがいるのは、その名残り。
ちなみに現代人が親しい目下の者に使う〝おまえ〟は、昔は最高の敬語だった。
当初は〝御前様〟が正式で、この〝様〟は内裏様から由来したものであった。
今日人を呼ぶのに、一般的な〝さん〟はこの〝様〟がなまったものなのである。
親から先にお屠蘇を飲んではいけない?
元旦に家族そろって飲むお屠蘇。昔からこのお屠蘇を親から先に飲んではいけないと戒めている家庭は多い。なぜだろうか。
お屠蘇を年少の順、つまり年下の子供から先に飲めという作法は、儒教の教科書『礼記』の一節からきている。「君の薬を飲むは臣先ず嘗む。親の薬を飲むは子先ず嘗む」とあるのだ。
要するに、臣や子がまず毒味をするのが忠孝というものではないかというわけである。
さて、ときは移り変わって現代。今さら毒味でもあるまいが、強いて毒味にこだわるのなら、まず親が飲んでから子供に口をつけさせるのが親子の情というものではないだろうか?