30代のやってはいけない冠婚葬祭作法

知らないではすまされない「冠婚葬祭」マナー

八月になってからのお中元はタブー

中元といえば、毎年六月はじめから恒例のデパート商戦が開幕となる。

 

中元の品揃えを競った新聞の折り込み広告がさかんになり、休日のデパートの混みようは、テレビのニュースにもしばしばとりあげられる。

 

しかし、中元のそもそもの起源は中国の暦にあった。一月十五日を上元、七月十五日を中元といい、十月十五日を下元ということに由来している。

 

故事によれば、これらを三元と呼び、祝ったということだ。中元だけが日本で根づいたのは、旧盆の時期と重なったからと考えられている。

 

日頃の感謝をこめて、人から人へと贈られる習慣は、室町時代以降にはじまった。本来、中元は七月十五日。夏にする贈り物全般をさしていると思っていたら、大きな誤解である。

 

お中元として贈るなら、八月に入ってからでは遅く、失礼にあたる。また、盆と関係があると思いこんで、現在の月遅れの盆にあわせて持っていったのでは、「お中元」としての意味はもたなくなってしまうということだ。

 

中元のつもりならば、あくまでも七月十五日まで。七月に入ったら、いつでも届けられるように早目に用意するにこしたことはないだろう。

 

ちなみに、七月十五日を過ぎたら「暑中御見舞」として贈るようにする。また「残暑御見舞」は八月七日の立秋の頃からで、たとえまだ暑いさかりでも、こう記すのがマナーといえる。

女性は黒足袋を履かない

着物姿の女性が履く足袋の色といえば、ほぼ白ときまっている。胸もとをつつむ半えりの白とともに、見る者に清々しい印象を与えるものだ。

 

男性はといえば、白足袋は滅多に履かない。男の白足袋は切腹のときときまっていたからである。足袋といえば木綿が主流だが、この歴史はそう古くない。

 

元禄年間に侍が履いていたのは革足袋。ほかに麻足袋、絹足袋とあったが、木綿足袋を履くことができたのは歴代将軍ぐらいのものだった〝革足袋は臭くてかなわない〟といったことが、当時の吉原の記録に書かれてある。

 

木綿はもちろん舶来品で、ふつうの侍においそれと手が出せる値段ではなかった。徳川家康などが、白木綿の地に金で巴紋を押した豪華なものを愛用していたらしい。主流は模様か色染めで、黒足袋はやがて儀式に際して履かれるようになった。

 

さて、女性のほうは黒足袋を履かない。もとをたどれば、女性は神に使える存在。清浄な色、白装束に白足袋を身につけることが、本来の姿とされていたのである。

 

結婚式に際して、花嫁はこれからどんな色にも染まるから白い衣装というのはあくまでも俗説だ。現代の若い女性たちは、カラフルなストッキングをはくので、こんなタブーはもう関係ないが……。

十五夜を祝ったら十三夜も祝わなければならない

旧暦の八月十五日を十五夜と称し、昔から月見にもっとも適した日とされてきた。では、十三夜をご存知だろうか。

 

こちらは旧暦の九月十三日。豆名月ともいわれ、やはり月見日和りの日である。「十五夜を祝ったら、十二夜も祝わなければならない」という言い伝えがある。片方だけ祝うのを〝片見月〟といって忌んだのだ。

 

昔の月見は今と違って、大切な行事でもあったから、片方だけ祝うのを片手落ちのようにとらえて嫌ったのであろう。

 

片見月を不完全なものの姿、異常なできごととみたのだ。今のような照明器具もなかった昔、漆黒の夜空にコウコウと輝く月はさぞ美しかったに違いない。

山は神聖な場所、タブーのかたまりだ

昔から、山を畏敬すべき存在として、崇めたてまつる地方は多い。奈良県桜井市の三輪山などは、さしずめその典型であろう。

 

三輪山のふもとには、日本最古の神社といわれる大神神社がある。祭神は大物主大神、別名三輪明神とも呼ばれるが、この神社には本殿はなく、三輪山自体が神体なのである。

 

現在でも神官しか行くことのできない禁足地がいたるところにあり、また、一般人が入山する場合でも、神社の前で必ず身を清めてから、入らなくてはならないとされている。

 

神霊の憑依するといわれる老木や特殊の形状を持つ樹や巨石は、しめ縄で囲まれており、手を触れたり汚したりすることは固く禁じられている。

 

これらを写真に撮ることもタブーで、この禁を破って祟りにあった者も数多いときく。

 

三輪山に限らず、このほか山中でのタブー行為としては、口笛や笑い声、また危険や不浄にかかわる言葉を口にしないということなども、特に山入りの機会の多い地方では、一般化しているようである。豊かな恵みを与え、人々を守ってきた山は、同時に底しれぬほどの畏怖をも人間に与えてきたようだ。

赤不浄というタブーがありまして

初潮、処女喪失(結婚)、そして、出産──女性というものは、血を流しては次第に生まれ変わっていく生き物のようである。

 

そして、そのたびごとに、周囲の者は赤飯を炊いて祝ってきた。しかし、その反面、昔の日本では、女性が流す血を不浄のものとして忌む風習もあった。

 

これを死の忌みである黒不浄に対し、赤不浄と呼んでいたのである。産屋を別に建てたり、妊婦が神社にお参りしてはならないなどといった禁忌も、この赤不浄の考えから発している。

 

昔は、月経のときも似たような忌みをしたらしい。愛知県幡豆郡佐久島では、昔、家の人口付近に一メートル四方の小室があった。

 

家の女はコヤ(月のもの)のときは、食事は別の火で煮炊きをし、そこで食べたそうである。そして、コヤがあけると、海中で体を洗い、家族とともに食事をした。

 

これを佐久島では、アイビを食うと称している。おそらく相火で食べるという意味なのであろう。これらの禁忌は、いずれも神々に対して清浄さを重んずるという、日本人特有の精神の発露である。

 

日本の神々はよほど清潔好きだったのだろうか。そのおかげで、被害をこうむったのは、女性たちばかりである。どうも昔の男尊女卑の社会構造が窺いしれるような話である。

ひな人形の翌日飾りはお嫁にいけなくなる?

三月三日のひな祭りをすぎると、どこの家庭でもひな人形を片づけてしまう。

 

「ひな人形を翌日飾りすると、お嫁にいけなくなる」といわれているからだ。実際に「お嫁に行けなくなる」かどうかはともかく、なぜ、ひな人形の翌日飾りはタブーなのだろうか。

 

ひな祭りは江戸時代までは上巳の節句といった。上巳とは、三月の最初の巳の日のこと。この日に厄払いのために、人形を小舟に乗せて海に流すという風習があったのだ。

 

やがて時が移り、ひな人形が高価なものとなった現代では、毎年、人形を水に流してしまうわけにもいかなくなった。そこで、水に流したつもりで片づけてしまうのである。

男雛は向かって左に飾ってはいけない

欧米から「ウサギ小屋」と酷評された日本人の住まい。そんな住宅事情を反映してか、お雛さまを飾る家が、年々少なくなってきた。

 

段飾りの雛段を飾るには、ウサギ小屋はあまりにも狭過ぎるのかもしれない。寂しいかざりである。さて、それはさておき、お雛さまにもタブーはある。男雛は向かって左に飾ってはいけないということをご存知だろうか。

 

関東では、このタブーを無視して、男雛を向かって左に飾るのが一般的なようだ。京都ではその逆、タブーを守って、男雛を向かって右に飾る。なぜ左右を問題視するのか。

 

歴史を遡ると、日本は平安朝の時代から、中国と同様に左を上位とする考え方が支配的であった。この左上中心の考え方は、古代中国の陰陽思想からきている。

 

神を中心に、神のほうからみて左側が上位、右側が下位、我々からみると、向かって右側が上位、左側が下位となるわけである。したがって男性上位の日本の皇室でも、天皇陛下、皇后陛下がならばれるときは、代々この慣習にならっているのである。

 

東京の飾り方が逆になったのは、母親が徳川家康の孫姫であった興子内親王の影響であるといわれている。

 

彼女がのちに明正天皇になるからだ。幕府が朝廷に対して優位にたとうとしている意図がみえる。いつの世も政治というものは生臭いものだ。